2008年11月28日

ダライ・ラマ14世の半生




農家の子どもから宗教指導者へ、ダライ・ラマ14世の半生


生き仏としてチベット人の敬愛を集める
チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世(73)。
欧米社会は尊敬の眼差しでみつめるが、
中国政府にとってはいまいましい存在と映る。

 ダライ・ラマ14世は、
1935年7月6日、
チベット東北部のタクツェルという農村で生を受け
ラモ・トゥンドゥプと名づけられたこの幼児は、
2歳の時に先代ダライ・ラマの転生者と認定され、
翌年、正式にダライ・ラマ14世として即位した。

 1950年、チベットを自国の領土だと主張する
中国の人民解放軍がチベットに進駐すると、
まだ十代だったダライ・ラマは
国の指導者となることを求められた。
ダライ・ラマは平和維持に努めたが実らず、
1959年には中国側が
市民らの抵抗運動を徹底弾圧したことから、
同年、兵士に変装して
チベットを逃れ隣国インドに亡命した。
この時、わずか24歳だった。

 以来、半世紀にわたり同国北部の
ダラムサラで亡命生活を送り、
亡命チベット人、自治区内チベット人双方の
精神的支柱としての役割を担ってきた。

 また、チベット亡命政府の元首として、
各国首脳にチベット支持を訴えるなど、
外交舞台でも活躍する。

 特に、今年3月にチベットで暴動が発生して以来、
ダライ・ラマ14世が政治の表舞台に登場する機会が増している。

 4月に実施された北京五輪の聖火リレーでは、
リレーのルートとなった世界各地で、
チベットの暴動を武力で鎮圧した
中国政府への抗議活動が繰り広げられた。

 中国政府は、
抗議活動を扇動しているとして
ダライ・ラマを非難したが、
ダライ・ラマはこれを否定し、
北京五輪開催への支持を示した。
 
 チベット問題でダライ・ラマは、中国政府に、
独立ではなく「高度な自治」を求め続けている。
こうした非暴力による
チベット問題解決を目指す姿勢が高く評価され、
ダライ・ラマ14世は
1989年にノーベル平和賞を受賞している。
ダライ・ラマは、「中庸」による解決策は、
チベット人にとって最も益となると主張している。

 ダライ・ラマとは、
モンゴルの称号で「大海」を
意味する言葉だという。

チベット

元代と清代に中国の支配を受け
清の滅亡後、インドを支配していたイギリスは、
チベットへの侵攻を図り、
中国国民党率いる中華民国とのにらみ合いの中で、
微妙な状況におかれた
その当時まで、チベットは農奴制の社会であり、
少数の農園主のもと、
多くの民は奴隷同然で、
寺院は農園主からの寄進で成り立っており、
ダライラマはその頂点にある
存在であったとする主張もある。
しかしチベットの大半は
「農奴制」が可能な土地ではなく、
大半が遊牧生活を行っていた。

当初のチベットは中華人民共和国と共存
1955年 - 1959年に
「中華人民共和国政府による併合」に
抗議する運動(ラサ決起)が起こり、
ダライラマはインドに亡命
亡命政府を樹立した。
その後も独立運動を行っていたが、
米中国交回復のとき、
米国の支援が打ち切られたとされる。

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11月28日



税関記念日

大蔵省が1952年に制定。

1872年、運上所の呼称を
「税関」に統一することが決定された。



太平洋記念日

1520年、ポルトガルの航海者マゼランが、
後に「マゼラン海峡」と命名される
南米大陸南端の海峡を通過して太平洋に出た。

天候が良く平和な日が続いたため、
この海を"Pacific Ocean"「太平洋」と名附けた。
マゼラン自身はフィリピンで原住民に殺されたが、
彼の船は初めて世界を一周して帰国し、
地球が丸いことを証明した。

マゼラン

ポルトガルの航海者、探検家。
南アメリカ大陸の南端を発見して、
初めてヨーロッパから西回りで太平洋に到達し、

本名はフェルナン・デ・マガリャンイス

ポルトガルのオポルト村の近郊で
下級貴族の子として生まれ
少年の頃に小姓として宮廷入り
1505年、25歳でアルメイダの艦隊に入って
初の航海に出る。
その後、マラッカ・モルッカ諸島などで
航海の経験を積む。

1512年に一旦リスボンに帰還し、
翌年のモロッコでの戦闘に参加するが、
この時に右足を負傷して
以後は右足が不自由になった。

航海者としての自信を付けたマゼランは
ポルトガル王・マヌエル1世に対して
モルッカ諸島への西回り航路開拓のために
船長にしてもらえるように要請した。
モルッカ諸島は別名を「香料諸島」と言い、
香辛料の産地であった。
このマゼランの案は受け入れてもらえなかった。
また今までの航海に対する報酬の増額を訴えたが、
これも受け入れてもらえず、
モロッコでの戦利品を独占したとの疑いを受ける。

嫌気が差したマゼランはポルトガルを出て、
スペイン・セビリャの親戚の家に移り住んだ。
この時に居候先の娘ベアトリックスと結婚した。

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スペインからの独立・大コロンビアの1州となった日 (パナマ)

1513年にスペイン人探検家
バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアが
現在のパナマ東部ダリエン地域から
パナマ地峡をさまよいながら横断、
現在のダリエン県都があるラ・パルマがある
サンミゲル湾にて太平洋を「発見」したことに端を発する。
その後1519年8月15日に、
この地域の総監兼総督に任命された
ペドロ・アリアス・デ・アビラ によって
現在のパナマシティ東に位置する
“パナマ・ビエホ”に太平洋岸最初の
スペイン植民都市として成立した。

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親鸞忌,報恩忌

浄土真宗の開祖・親鸞上人の1262年の忌日。

親鸞上人

鎌倉時代初期の日本の僧
浄土真宗の開祖とされる。
明治9年11月28日に明治天皇より
「見真大師」の諡号を追贈

法然を師と仰いでからの生涯に渡り
「真の宗教である浄土宗の教え」を継承
さらに高めて行く事に力を注いだ。
自らが開宗する意志は無かったと考えられる。
独自の寺院を持つ事はせず、
各地につつましい念仏道場を設けて
教化する形であった。
親鸞の念仏集団の隆盛が、
既成の仏教教団や浄土宗他派からの
攻撃を受けるなどする中で、
宗派としての教義の相違が明確となって、
親鸞の没後に宗旨として確立される
浄土真宗の立教開宗の年は、
『顕浄土真実教行証文類』が完成した
寛元5年(1247年)とされるが、
定められたのは親鸞の没後である。
     
     フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
posted by kurarisu at 02:00| 話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする